近くの図書館で開催された読書会の課題本だったので購入して読みました。
前にも読んだことはあったのですが、今回久しぶりに読み直してみて、前に読んだ時よりもすごくおもしろいと思いました。前はいじめがひどすぎて読むのがつらい・・・という印象が強かったような。
中学生の「僕」はクラスでいじめを受けている。ある日、机の中に「私たちは仲間です」と書かれた手紙が入っていた。それは、クラスでもう一人いじめられている女子のコジマからだった。
「僕」はコジマと話すようになって世界が変わった。いじめは相変わらず続いているけど。
しかしそんな二人の関係も少しずつ変容していく・・・
今回、自分が感じたことを説明しないとと思いながら何回か読んだこと、また、他の人が感じたことを聞くことで、すごく理解が深まったように思います。
読書会に参加したのは初めてでしたが、とてもいい経験になりました。
今までこうやって読んだ本の内容について時間をかけて人と話をしたことがなかったのですが、いいものだなあと思いました。
何より、みんな本が好きという前提があるので、何を言っても興味を持って聞いてくれるんじゃないかな、という安心感がありました。
読書会で出た意見(『ヘヴン』について)
読書会で聞いた意見でなるほどなーと思ったことを以下につらつらと書いておきます。
ネタバレになるので読んでない方は気をつけてください。
このつらい日々にもきっと意味があるはず、というのはキリスト教を連想し、「カラマーゾフの兄弟」のシーンを思い出した。
川上さんはドストエフスキーを意識していると思う。
コジマが「いじめを受けるのにもきっと意味があるはず」とい話すことと、百瀬の「意味なんてない。全部たまたまだ」という正反対の言葉。お互いのロジックの噛み合わなさ。
これは世界で今も起きている戦争と同じなのではないか。
コジマや百瀬みたいな中学生が現実にいるのだろうか?この二人は「僕」が作り出した幻想なのでは、という気がした。だから斜視の手術をした後コジマはいなくなった?
斜視の手術をして、義理のお母さんという存在もいて、「僕」にとってのヘヴンは見えた気がしたけれども、コジマにとってのヘヴンはどこにあるのだろう?
コジマの「しるし」は意味を変容させていき、最後には食べない、という行動を取るようになる。それは負のエネルギーであり、いずれエネルギーが枯渇してしまう。「僕」には手術やお母さんという存在があった。そういうのがないコジマは今後どうなってしまうのか。
重要なシーン
- コジマのお母さんが離婚したところ
- コジマが公園で服を脱ぐシーン
- 斜視の手術後に世界が変わるところ
「私が、お母さんをぜったいに許せないのは」
P254
(中略)
「お父さんを捨てたことでも、新しい人のところへ行ってなにもかもを無かったことにしたことでもなくて」
僕は黙って肯いた。
「最後まで」
僕はまた肯いた。
「最後まで、可哀想だって思い続けなかったことよ」
この場面はとても重要なんだということはわかったのですが、今の私には、まだちょっと腑に落ちない場面でもありました。時間をかけて考えてみたいところです。
小説というものについての印象的だった意見
小説というものについてもいい言葉をたくさん聞けてよかったです。
- 小説は答えを導くものではない。リアルな出来事の一部にきらりと光を当てるもの。
- いい小説ほどエンドレス。何度も最初に戻って考えさせられる。
- 活字になる前の「コトバ」を読むようになると読書はずっと楽しくなる。
- 純文学は答えを出さない。川上未映子はどこに希望を残しているのか?
川上未映子さん、いいなあ。
村上春樹との対談本『みみずくは黄昏に飛び立つ』や、『夏物語』は読んだことあったのですが、他の本も読んでみよう。
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